「討ち入り前夜、一同なた豆を食す」

師走になると毎年のように話題にのぼる赤穂浪士討ち入りのエピソード。よく知っている話なのに何度聞いても心を打つのは、日本人の心の琴線に触れる「情」に富んだ故事だからでしょう。

その赤穂浪士が吉良邸討ち入りの前になた豆を食べていたのをご存じですか。「浅野匠頭殿御家士敵一件佐藤一覚書」という古い文献に記録が残っています。
討ち入り前夜、準備のため一同は堀部安兵衛の家宅に集まっていました。その際、安兵衛の養父である堀部弥兵衛の妻が自宅から持参した「なた豆を切ったもの」を一同で食べたと、同覚書には書かれています。

赤穂浪士を影から支えていた女たちが、刀豆・タッパケと呼ばれ、武士にとって縁起のよいなた豆をふるまったのでしょう。滋養に富むなた豆を食べたことがその後の四十七士の働きにどれほどの影響を与えたか定かではありませんが、元禄時代に薩摩の伝統食材であるなた豆が江戸で食されていたというのは大変興味深いことといえます。

種子島久基と内蔵助

でも、なぜ赤穂藩になた豆が伝えられていたのでしょうか。実は薩摩藩と赤穂藩にはかねてより深いつながりがありました。薩摩藩家老で種子島氏第十九代当主の種子島久基と赤穂藩家老の大石内蔵助は、山鹿流兵学を修めた同門の出でした。当時、武士は兵学を学ぶことが修業のひとつであり、共に学んだ縁で二人は親交が深かったとの口承もあります。
もともと薩摩の兵学は甲州流と呼ばれる流派ですが、種子島久基は山鹿流の考え方も取り入れて独自に工夫するなど、才覚に富んだ人物だったようです。
種子島久基は兵法の知識だけでなく武術にも秀でていたようで、武田流軍法を和田義之に、本心鏡智流槍術を梅田治繁に、関口流剣術を渋川義方に学び印可を受けており、薩摩藩主の命で江戸藩邸において槍術の演舞を行い絶賛されたとの記録も残っています。文武両道とはよくいったもので、久基は近世の日本で初めて種子島にサツマイモを普及させるなど、民衆のための食の研究にも熱心でした。薩摩伝承の食材であるなた豆を、久基が赤穂の人々に伝えた可能性も十分考えられます。赤穂浪士となた豆の意外なつながりは、大石内蔵助と種子島久基の友情に起因したものかも知れません。
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